音のメルヘン屋について
会社概要メディア掲載収録作品製造物│音のメルヘン屋歴史館│音のメルヘン屋地図>>HOME

音のメルヘン屋歴史館
-音のメルヘン屋の歴史年表です-
●全ては、1966年(昭和41年)、数名の若者達によって「株式会社フジ企画が設立されたことから始まった。当時は、クラシック・演劇の企画制作が仕事であった。

●1967年(昭和42年)、「株式会社フジ企画が株式会社として登記される。

●1968年(昭和43年)、渋谷から千駄ヶ谷へ移転。キングレコード等のミュージシャンのスタンバイを開始。

●1969年(昭和44年)〜、フォークシンガーの学園祭企画を開始する。森山良子、かぐや姫、ふきのとう、アリス、アルフィー、杏里、イルカ、尾崎亜美、飯島真理、はしだのりひこ、谷山浩子、とんぼ、泉谷しげる等。その他に学校寄席で、とんねるず、コント赤信号、桂米丸、桂歌丸、林家木久蔵、三遊亭小円遊、松旭斎すみえ、ひびきわたる、等。

●1969年〜1972年の間に、フジ企画スタッフ一人一人を、アイデアを見つけるためという名目で、代わる代わる渡米、「三木宏」ニューヨークにて、人類が始めて月に到着したというニュースを見る。そして、後に生まれる「音のメルヘン屋」という名を有名にした「あなたの歌声を吹き込み、この世で一枚だけのレコードを作る。」というアイデアを、エンパイアーステートビルの屋上にあった、自動音楽演奏機械を見て思い付く。

●この日本初の試みを取材したどこかのマスコミ記者が、フジ企画の事を「この会社はまるで、音のメルヘン屋だ!」と誌面に書いた事がきっかけで、後に「音のメルヘン屋」という名が、正式な屋号として付くことになったのである。(商標登録番号-1169938)

70年代のメルヘン屋の写真 70年代のメルヘン屋の写真
まだ正式なスタジオがない頃の録音風景。70年代初頭の写真と思われる。今若者達が路上でギターをかき鳴らすように、この頃、日本ではフォークブームが到来していた。
録音が終わりその場でレコードを作っている若き日の三木宏。

KOUJIのこと (田家秀樹ライナーノート) 1995.5
KOUJIのCD宣伝用パンフレットより抜粋

「音のメルヘン屋」という名前を聞いたことのある人は多いはずだ。70年代の初め、「あなたの歌をレコードにします」というアイディアでマスコミにもかなり注目された街のレコード工房である。インディーズのはしりだったとも言えるのだが、それを主宰していたのがKOUJIの父親だった。一方で学園祭のイベントをプロデュースしたりという、「音楽の現場」の担い手でもあった。当時のフォークやニューミュージックのアーティストたちのかなりの数が、ここを通過したはずだ。

●1972年(昭和47年)〜、こうして音のメルヘン屋が活動を開始することになり、NHK「カメラリポート、サラリーマンライフ」・TBS「モーニングジャンボ」・フジTV「3時のあなた」「小川宏ショー」「東八郎の商い情報」等のテレビ取材や、読売、毎日、朝日等の新聞取材、ラジオ、雑誌と、数多くのマスコミ取材をうける事となる。

●さらに、この間にメルヘン村構想が打ち出され、「メルヘン村」「メルヘン砦」といった言葉が生み出されている。自給自足と創作をテーマとしたコミュニティとなる「メルヘン村」を地方に築き、さらに東京に「メルヘン砦」を築き、「メルヘン村」で作られたものをプロモートするという壮大な企画であった。

●1973年(昭和48年)、動くレコード制作車「メルヘン号」が完成する。ライトバンが黒く塗られ、大きなたれ目、大きな鼻が付き、大きな帽子をかぶり、まるで石焼き芋でも売るかのごとく、街から街へ、レコードの制作をして回ったのである。(後に廃車となってしまった時の悲しみたるやなかった。)

●1975年(昭和50年)、メルヘン村計画の一貫として作詩家、作曲家、歌い手、演奏者などを繋げるがあつまり「メルヘンステージカントリークラブ」が立ち上がった。

 メルヘンステージカントリークラブ最初のレコード メルヘン村構想イラストボード

 下の曲名をクリックするとメルヘンカントリークラブの曲が試聴できます。
 試聴:卒業
作詞/TOKI 作曲/マーチンサントス 歌・演奏/Martin Santos Junior

メルヘン号の写真
メルヘン号の中の写真
メルヘン号
メルヘン号の中でレコードを作っている三木宏

メルヘン号の写真
秋葉原の歩行者天国での風景

メルヘン号の写真
メルヘン号での「くるま寄席」の風景

 

●1980年(昭和55年)、フォークシンガー「おだこうへい」のプロデュースを開始。

●1980年(昭和55年)、「山の手線夢巡り」(作詩・作曲/竹内筆流 歌/桂 幸丸)制作。当時、行列のできるほど人気のあった宝くじのおばちゃん、竹内筆流さんからの制作依頼だった。「音のメルヘン屋」が渋谷で「じゅげむ&めるへんず」(メルヘンステージカントリークラブ)「悪のり音頭」の路上パフォーマンスをしていた時に知り合ったのだ。

●1981年(昭和56年)、「音のメルヘン屋」に、録音スタジオ「メルヘン砦スタジオ」が完成する。以前あったスタジオの何倍もの大きさと、設備である。この時、音のメルヘン屋自体も、以前の2倍以上の広さとなった。「メルヘン砦スタジオ」という名は、「メルヘン村」プロジェクトのまさに名残りといえるだろう。

●1982年(昭和57年)、「おだこうへい」のセカンドLPレコード「蒼翼」が「SOUNDSUNレコード」より発売される。音のメルヘン屋の「SOUNDSUNレコード」というレーベル名はこの時に生まれたと推測する。同時にスタジオ名「SOUNDSUNスタジオ」と変更される。後にレコーディングに訪れたランキンタクシーらにジャマイカのスタジオのような名前と作りだと言われたのはまだ記憶に新しい。「メルヘン砦スタジオ」という名前はじつに一年しかつかわれなかったというわけである。

●1982年(昭和57年)、現役保母さんシンガー「チャッピー」のプロデュースを開始。LPレコード「僕のともだち」が「音のメルヘン屋」より発売される。

●1983年(昭和58年)、バレンタインデー用「ハート型レコード」を制作する。(特許取得)

●1983年(昭和58年)、フォークシンガー「おだこうへい」のLPレコード「蒼翼」がエピックソニーから発売される。

 下の曲名をクリックするとおだこうへいの曲が試聴できます。
 試聴:赤いバスケットシューズ
作詞/おだこうへい
作曲・編曲/水戸雀尊

●1983年(昭和58年)、「チャッピーLPレコード「幻想の世界」が「音のメルヘン屋」より発売される。

 下の曲名をクリックするとチャッピーの曲が試聴できます。
 試聴:夢のブランコ
作詞/中島世津子
作曲/中島世津子
編曲/水戸雀尊

●1985年(昭和60年)、日本テレビお正月クイズ番組にて、「チョコレートでレコードが作れるか?」というクイズの取材を受ける。リポーターに早見憂が来社し、実際に「チョコレートのレコードを制作」。クイズは正解で、たしかに音楽が鳴った。・・・が、チョコが熱でだんだんと溶けてきてしまうため実用性はなかったが、これほど音のメルヘン屋という名前に相応しい仕事依頼はないのではないだろうか?

●1985年(昭和60年)、百姓シンガー「須貝智郎」をプロデュース。音のメルヘン屋のレーベル「SOUNDSUNレコード」より、LP「翔ぶべ」を発売する。

●1985年(昭和60年)、映像の企画と制作を開始する。

●1986年(昭和61年)、麻布のアクセサリー店よりの依頼で、120年前の貴重なスクエアピアノを「音のメルヘン屋」に持ち運び、演奏、録音が行なわれた。

読売新聞掲載記事

朝日新聞掲載記事

●1989年(平成1年)、フジタ工業「福岡ツインドーム」等の映像を制作する。 

1990年(平成2年)〜、このころからレコードが姿を消し、CDへと時代が移り変わる。音のメルヘン屋」は、CDの時代に変わっても、「あなたの歌声を吹き込み、この世で一枚だけのCDを作る。」という精神は変わらない。

●1993年(平成5年)、シンガーソングライター「KOUJI」のプロデュースをはじめる。

●1995年(平成7年)「KOUJI」メディアレモラス(ポニーキャニオン)からCDシングル「友よ」が久石譲のプロデュースにより発売される。

●1995年(平成7年)、創立者「三木宏」他界する。創立から29年目9月20日の事だった。数多くの音楽関係者が式に訪れる。

●1996年(平成8年)「KOUJI」メディアレモラスからCDアルバム「橋を渡る少年」が矢野誠のプロデュースにより発売される。

●1999年(平成11年)「KOUJI」「SOUNDSUNレコード」からCDアルバム「opera」が市川道利のプロデュースにより発売される。

●2001年(平成13年)、世紀を超え、創立35年を向かえ、様々な人々が駆け抜けた「音のメルヘン屋」も、世代が変わり、時代も変わり、「音のメルヘン屋」の名を知らなかった若者達の手によって、「メルヘン村」プロジェクトのイラストボードが、倉庫奥深くより発掘され、新たに「メルヘン村ネット」計画始動。

●2003年(平成15年)、レコードをCDへと復刻する業務を開始。


音のメルヘン屋について
会社概要メディア掲載収録作品製造物│音のメルヘン屋歴史館│音のメルヘン屋地図>>HOME